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16日からまたしばらく沖縄に帰ります。

今回は三七日、四十七日の法事をしに帰るけど、もともと夏休みが始まる前から取ってあった飛行機でした。お母さんの誕生日が10月18日だから、一緒にお祝いしたいと思って取ってた飛行機でした。

 

宇都宮に帰ってきてから10日ちょっとが経ちました。忙しい方が色々考えなくて済むだろうとバイトを詰め込んで(卒論書こうな?)みたけど、結局今日まで泣いてない日は1日もないです。私にとっては宇都宮の方が日常で、ここにいる方が母がいない実感が湧きます。何か食べようと思って棚を開けた時、そこに入ってるのは母が送ってくれた食べ物ばかりだし、バイトが終わって「今バイト終わったよ〜」とか、疲れた時に真っ先に連絡してたのは母でした。だから棚開けるだけで泣くしバイト帰りに自転車こぎながら泣くし、お風呂でぼーっとしながら泣くし、結局毎日泣いてて困る。

 

いろんな人が心配してくれて連絡をくれる時に、あぁ私にはこんなに大切にしてくれる友達が沢山いたんだと思って嬉しいのに、思うようには元気になれなくて申し訳ないし、、

 

未来に行くのと過去に行くのだと、過去に行く方が難しいらしいです。でもいつも、やり直せたらと思うことの方が多いですね。後悔しないようにと心がけて過ごしていたのに、結局はこうして後悔してしまってるんだなあ、、あの日が最後だと知ってたらもっと、こうできたのにとか、一緒に過ごせるのがあと5年もないと知っていたらこんなに遠くに進学しなかったのにとか。

 

もし、も願ってしまいますよね。

もし9月18日に戻れたら、もしあと1日だけお母さんと過ごせたら、

あと1日だけでいいからお母さんに会いたい。聞いてほしい話がまだまだあったよ。特別な話じゃないけど、誰とこんな話しして楽しかったとか、どういう時に嬉しいとか、こんなことがあって心底ムカついたとか、そういう話が毎日積もっていくんだよ。いつも伝えたかったありがとうと愛してるはまだ直接言えてないよ。

 

外に出したくなさそうだったのに、県外に進学してごめんね、1年も海外に行ってごめんね、もっと会える時間があったんじゃないかと思うと、どうしても悔やんでしまうね。結局いつもお母さんは私の意思を尊重して応援してくれたよね。今はきちんと法事の度にしっかり帰って、顔見せるのが唯一できる親孝行だと思います。

 

前帰省した時に、美味しいって喜んでたけど食事制限であまり食べられなかったココナッツマカロン2袋も買って持って帰るね。今回帰りの預け荷物が20kgに設定されてて、お父さん曰く「お母さんが沢山荷物持たせると思ってたから」だそう。まだまだあっちこっちに母がいた痕跡ばかり残ってて、それだけでまた泣いてしまうよね。

 

まだちょっと早いけど誕生日おめでとうママ。どんな何よりもずっと大好きだよ。

ママ

死というのは誰もがいつか経験するものであり、誰もが経験したことのないものでもあります。死ぬことができるのは一度きりなのに、それは永遠のようにも感じます。

 

時間の不可逆さを知りました。

奇跡というものは簡単には起こりません。

 

2018年9月19日午前11時21分、大好きな母がこの世を去りました。この時間は死亡確認がなされた時間であり、実際にはその1分か2分前には既に亡くなっていたかもしれません。母の主治医の先生が「心音も聞こえません」と言ったその瞬間が、記憶に焦げ付き忘れられません。

 

母は50歳でした。あまりに若すぎる。

まだ気持ちの整理はつきませんが、色んなことを鮮明に覚えているうちに文字に残して置きたいと思い書いています。どこから振り返ればいいかな。これは、私自身のための記録が主な目的なので、かなり詳しく書くと思います。悲しみをいつまでも覚えておきたいからです。

 

 

母は、肝臓癌でした。(実はギリギリまで膵臓癌だと思っていました。笑)肝臓癌というのは自覚症状が出る頃にはかなり進行していることが殆どらしく、診断された時既に母はステージ4、所謂末期ガンでした。その上癌腫瘍がある場所が悪く、メスを入れらことのできない場所でした。それが分かったのが去年の2月。私はベトナムに留学中でした。母の希望か父の希望か分かりませんが、私が母の病気のことを知ったのは帰国してからです。私の留学生活を自分への心配で邪魔したくないと思ったのかもしれません。母はそういう人でした。

 

診断された時既に主治医の先生から「年は越せないだろう」と言われていたそうです。でも、一緒に年を越しました。一緒に初詣も行ったし、おみくじも引いた。なんとなく、これが母と一緒に過ごせる最後の正月かもしれないとぼんやり考えてはいたけど、また来年の正月も一緒に過ごすつもりでした。「さっさと卒論終わらせて沖縄帰るからね」なんて電話で話していたし、本当にそうするつもりでした。こんなの現実になんてなって欲しくなかった。

 

8月22日に母は最後の入院生活に入りました。入院した翌日にかなり容態が悪化したようで、父と姉、叔母は「この状態が続くならあと2、3日が山場だろう。長くてあと1週間くらいだろう。」と説明を受けたそうです。その夜に父と姉から私に電話がかかってきて「出来ればすぐに帰ってきてほしい」と言われました。翌日以降の予定を全てキャンセルして、翌日すぐに飛行機を取って沖縄に帰りました。私が病院に着いた時、母がちょうどHCU(高度治療室)から普通の病棟へ移動する所でした。母はなんとか持ち直して、殆ど寝たきりで1人では身体を動かすことができない状態ではあるけど、かなり身体もむくんでいたけど、会話をしたりフルーツやお菓子を食べられるくらいにはなりました。父と姉と私は母が病室で1人寂しくないように、毎日交代で病室に寝泊まりしました。母の姉は毎日病室に来てくれました。モルヒネ投与もあり、母は1日の多くの時間を寝て過ごしていたけど、起きた時には冗談を言ったり、普通に、普通の会話を楽しみました。

 

このまま良くなって、家に一緒に帰りたいと毎日思っていました。実際、良くなっているようにも感じました。でも、なくなる1週間くらい前に主治医の先生から「容態は安定しているけど、徐々に悪くなっている。」というような説明を受けました。そして、緩和ケアを行うホスピスに移ることを提案されました。それは、ターミナルケアを行う場所で、末期ガンに伴う痛みを和らげたり、最期の時間をより良いものにしたりする場所です。それは、医療行為をやめるということでもありました。「あと1ヶ月くらいだ」と言われましたが、必ず良くなる、大丈夫、奇跡が起きると信じて疑いませんでした。

 

その日、私と姉は日帰りで宮古の仏壇に線香をあげにいくことになっており、朝早くから空港に向かっていました。もう少しで空港に着く所で、父から電話がかかってきました。「お母さんが危ないから、今すぐ病院に来てほしい」その言葉を聞いて急いで病院に向かいました。7時前の事でした。母は意識障害を起こしていましたが、私と姉が手を握って声をかけると目を開けてくれて、「わかる?」と聞くと頷いてくれました。かなりうなされていて呼吸もおかしくて、こわくて涙がとまりませんでした。おじさんやおばさんもたくさん来てくれて、みんなで必死に、母がいってしまわないように声をかけて手を握って身体を触って、とにかく必死でした。11時ごろかな、全然時計なんて見てなくて覚えてないけど、うなされていたのが落ち着いて、冷たかった手足にも温度が戻ってきて、みんな、落ち着いたと思いました。でもそこからだんだん呼吸の感覚が長くなって、弱くなって、最後は眠るように静かに逝ってしまいました。呼吸が止まってから先生が来るまで、本当に長く感じました。生きているとか死んでしまったとか、とにかく何も考えられなかった。死亡が確認されて泣き崩れても現実味なんて全くなくて、だって眠っているみたいで、今にも起きそうだったから、まだあたたかかったから、嘘みたいだと思いました。昨日まで、おしゃべりできてたじゃん。夜も電話したじゃん。

 

気持ちが追いつかないまま、葬儀の準備をしないといけなくて、いろんなものを待っている間、肺に溜まっていた?水分が口から溢れてきたのを見たときに、あぁ、どれほど苦しかったんだろうと思いました。そりゃあ毎日呼吸もしづらいよな、ずっと苦しかったよなと。息をひきとった後、母の表情は本当に穏やかで、苦しみからやっと解放されたんだと思います。病気が分かってから1年7ヶ月、沢山の食事制限と治療の副作用、母は本当に強い人だから言わないけど、本当にいろんな苦しみがあったと思います。全てのものからやっと解放されて、頑張ったね、良かったね、もう良いんだよ、そう思うのに、帰ってきてほしくて仕方ないです。

 

母はいつも病室で「大丈夫、元気」と言っていたけれど、どう考えても辛そうで、そんな姿を見てるとどうしようもなく涙が溢れそうになることもありました。母には余命を告げていませんでした。だから本人は治るつもりで本当に頑張っていました。でももしかすると勘のいい人なので分かっていたのかもしれません。絶対に身体はつらいはずなのに、自分で身体も動かせなくて精神的にもつらいはずなのに、母はいつも私たちがきちんとご飯を食べているのか、自分のためにお金を使いすぎていないか、そんな事ばかりを気にしていました。母には「夏休みだから帰ってきたよ!」と説明していたので、「せっかく沖縄に帰ってきたのにどこにも行けなくてごめんね」「ご飯作ってあげられなくてごめんね」「いつもごめんね」そんな事も言っていました。そんなのどうだっていいから、元気になって欲しかったんだよ。

 

やっと家に帰ってこれたのに、やっと母を待ち続けたももちゃんと再会できたのに、母は目も開けてくれなくて、話しかけても答えてくれませんでした。誰かが線香をあげるたびに母が本当に死んでしまったのを見せられている気分になり、涙が溢れ続けました。なんの実感もわかないまま泣くだけ泣いて、仮通夜もお通夜も過ぎて行きました。出棺の前日の夜、母と過ごせる最後の夜、父と祭壇の前で母の思い出話を沢山しました。本当に家族を愛してくれる、可愛くて優しくて愛情深い人でした。

 

1番来て欲しくない日、出棺の日が来てしまって、最後のお別れの時、母の顔に触れると「どうしてこんなに冷たいの?」と思うほど冷たくて、これじゃ本当に死んでるみたいじゃん、と思いました。母の感触を忘れたくなくて、顔じゅう色んなところに触れてみたけど、起きることはなくて、また胸が締め付けられるように苦しかったです。出棺の前に棺に花を入れる時、ゲージに入れていたモモちゃんがくんくん鳴いていました。多分モモちゃんもちゃんとお母さんとお別れしたかったんだと思う。叔母が出してあげて、一緒に花を入れてあげてました。出棺の時、モモちゃんの目が濡れてました。泣いてた。寂しいよね。お母さんが1番大好きだったもんね。

 

一緒に霊柩車に乗って、火葬場に向かう途中、一生懸命棺を撫でたり寄り添ってみたりしたけど、何の意味があったのか分からない。名残惜しくて、母にまつわる全てのものの、何でも良いから感覚を覚えておきたかったんだと思います。火葬が本当につらくて、だって身体を焼くんだから、2度も殺してしまうような、しかも自分の手で、そんな感覚があってすごく怖かったです。でもボタンを押した。閉まっていくドアを見て、息ができなくなった。

 

拾骨の時、焼け残った母の骨を見てすごくショックだった。もう、母は写真と記憶の中にしか居ないのだと思った。近づくと火傷しそうなほど熱くて、母はあの扉の向こうでどれほど熱かっただろうと苦しくなった。ここまでが、本当につらくて悲しかったです。

 

告別式には約450人も来てくれて、沢山の人が母の死を悼んでくれました。喜んでるかな。祭壇綺麗だったね、お花も沢山で良かったね、お母さん嬉しいかな。そんな話を父にしたら、「こんなに豪華にしなくて良いのに。って言いそう」と答えが帰ってきました。本当にそういう人でした。人のことばかりで、自分のことは後回し、わがままも言わないし、自分のためにお金も沢山使わない、そんな人でした。

 

なぜ母だったんだろう。まだ話したいことも一緒に食べたいものも行きたい場所も沢山あったのに。一緒に過ごす時間なんてまだまだ足りてないのに。何かあると時々母に電話をかけていたのですが、もっと電話すれば良かった。LINEももっと沢山したら良かった。私から電話があるとすごく喜んでいたそうです。もうLINEしても返事が返ってくることもないんだね。電話をかけても声を聞くこともできないんだね。母は間違いなく、この世界で私のことを1番愛してくれている人でした。私も大好きだよ。沢山愛情を注いでくれてありがとう。どんな時も味方で居てくれてありがとう。明日で23歳になります。母の初七日の日です。23年の人生、お母さんと長く過ごせて幸せだったよ。帰ってきてほしいよ。またおしゃべりしたいよ。

 

深い悲しみの中に居ますが、少しずつ、家族と一緒に前を向いて歩いていけるように頑張ります。明日が私の誕生日で、初七日の日でもあるので、それまでにぐちゃぐちゃでもまとめておきたいと思って長々と書きました。また、色んなことを思い出すだろうからその都度記録に残していけるといいな。未来の自分が感謝しそう。これを書いている途中にもボロ泣きしているので、モモちゃんが心配して寄り添ってくれました。優しい子だなあ。